わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、
あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。
この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
神よ、わたしのために清い心をつくり、 わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。
だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
しかし主よ、あなたはあわれみと恵みに富み、 怒りをおそくし、いつくしみと、まこととに 豊かな神でいらせられます。
人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
心の深みまで新たにされて、
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、
これはわたしたちの神のあわれみ深い みこころによる。 また、そのあわれみによって、日の光が上から わたしたちに臨み、
主は、あわれみをお忘れにならず、 その僕イスラエルを助けてくださいました、
そのあわれみは、代々限りなく 主をかしこみ恐れる者に及びます。
だれかあなたのように不義をゆるし、 その嗣業の残れる者のために とがを見過ごされる神があろうか。 神はいつくしみを喜ばれるので、 その怒りをながく保たず、
あなたのしもべのさばきに たずさわらないでください。 生ける者はひとりもみ前に義とされないからです。
イスラエルよ、主によって望みをいだけ。 主には、いつくしみがあり、 また豊かなあがないがあるからです。
それで人はどうして神の前に正しくありえようか。 女から生れた者がどうして清くありえようか。
ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、
では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。
ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
こうして、神はわたしたちの父祖たちに あわれみをかけ、その聖なる契約、
わたしはあなたの義と、あなたのわざを告げ示そう、 しかしこれらはあなたを益しない。
そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。
主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、 あなたに呼ばわるすべての者に いつくしみを豊かに施されます。
主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。 あなたは人おのおののわざにしたがって 報いられるからである。
人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。 女から生れた者は、どうして正しくありえよう。
たといわたしは正しくても、 わたしの口はわたしを罪ある者とする。 たといわたしは罪がなくても、 彼はわたしを曲った者とする。
あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。
わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。
心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。